異界へ連れて行かれる恐怖
その日、彼は日中色々な用件が入り、自分の仕事が思う様に捗らなかったので、残業をせざるを得なかった。
とはいえ、こんな事は彼以外の会社員ならばよくある事。
まあ、例え時間通りに仕事が終わっても、独身の彼は仲間と夕食が寺ちょっと1杯やってから帰宅するので、夜の7時8時にアパートにいることは滅多になかった。
その日は珍しく、フロアで残業は彼一人の様だった。
これもそう珍しいことでは無い。
彼はただ、自分の仕事を早く終わらせ、今日はどこの店で1杯やろうかと思うのみであった。
誰もいない夜のオフィスは不気味な程静かである。窓ガラスが二重になっているせいで外の音が殆ど聞えないので、余計静けさが気になる。しかし、彼はそんな事は大して気にもせず、せっせとパソコンに向かうのだった。
その時、廊下で人の歩く音がした。間違いなくコツコツコツコツ・・・と。そして、いきなり彼のオフィスのドアがキィィィと開いた。
「やぁ、ご苦労様ですね。今日はあまり残業の方もいないようで」
と声を掛けてきたのは、このビルの警備員だった。あまり面識も無かったけれど、一人で黙々と仕事を続けていたところだったので、彼もちょっとその警備員と話すことになった。
「このビルって、たまに変な現象が起こるって本当ですか?」
急に思い出して彼はその警備員に尋ねてみた。以前先輩達から聞いたオカルト的な話を思い出したからだ。
ちょっと不意を突かれた格好で、警備員は言葉に窮していた。
しかし、「そうですね。たまに夜中、廊下を歩く足音や影が見えた、なんていう人もいます。ただ、昔ここで何か悲惨な事があったかどうかは誰も知らないんですよ。 ただ・・・。」
と、警備員は急に真面目な顔になった。
「防犯カメラにそれらしき物が写った事はあります。あ、これは会社の決まりで言ってはいけない事になっているので内密に。お見せする事も出来ません」
と付け加えた。
なんだ、それじゃただの見間違えかもしれないじゃないか、と彼は心の中で思った。
お疲れ様です、と言って警備員は見回りに戻って行った。
彼は残業を続けた。心霊に付いて、彼は肯定派でも否定派でも無い。そういう物が見える人は見えるらしいが、自分にはその力が無いというように捉えていた。
しかし、それまで10年勤めているこの会社で、真夜中まで残業を何度もしているが、そんな物は見たことが無かった。
その時、隣の机から積み上げてあった書類が一部ドサっと落ちた。ビクッとしたが、隣の社員はいつも書類をきちんと片付けずに帰るのでこういう事もありがちだった。
「またAさんは・・・」
と、ため息交じりで書類を拾い上げて、顔を上げ隣の机に乗せようとした時、彼は黒い物が目の前をスッと横切ったような気がした。
さっきの話を聞いたばかりなので嫌な気持ちがしたが、こういうことは目の錯覚でよくあること。彼は気にせず仕事に戻った。
それから、彼のパソコンの画面が点いたり消えたりし始めた。これはまずいがバックアップは取ってあるので一応は大丈夫だろうと、彼は一度電源を切ってからもう一度パソコンをアップした。
しかし、先程の話が何者かを呼んでしまったのだろうか。オフィスは急に不気味な雰囲気を漂わせ出した。
何なのだろう?彼には何も見えない。何も聞こえない。
しかし、彼は寒気がしてきた。
オフィスの中のザワザワした音にならないこの感じは一体何だろう?かつて経験したことが無い感覚に彼は戸惑った。
すると、いきなり後ろで音がしたので、彼が振り返ると、後ろの席の椅子が、確かにその席の女性が帰る時にきちんと机の下に入れていたのに、通路に出ているではないか。
電気が煌々と点いた明るいオフィスにも拘わらず、彼はゾッとする気持ちを抑えられなかった。しかし、まだ霊が・・・というような考えには至らない。
次の瞬間、彼は後ろから背中をド突かれた。かなりの力で背中をドン!と押されたのである。怖かったが反射的に振り返ったが誰もいない。今のは何だ?
とに角もう今日は帰った方が良い。何なら警備員を呼ぼうか。でも、彼は今見回り中だから、警備室に電話をしても誰も出ないかもしれない。
冷汗が出てきた彼は、取りあえず自分の鞄を持ち、パソコンの電源もそのままに椅子から立ち上がった。
すると、またドン!と背中を押された。今度は立っていたこともあり、彼はそのまま床に倒れてしまった。
何が起こったのかわからない。何も見えない。しかし、彼は怖ろしく強い力で床に倒されたのだ。起き上がろうとしても何故か起き上がれない。
必死で置き上がろうとするが、今度は身体が勝手に足の方から引きずられて行く。
影を見ただけでは無いのか?
こんなことは先輩達からも聞いていない。
何が自分を引っ張ているのか、どこへ自分は引きずられて行くのか。
恐怖で必死に抗うがどうにも出来ない。
ただものすごい力で彼は引きずられて行った。
翌日から彼の姿を見た者はいない。
彼のアパートに社員が訪れまでしたが、そこにも彼はいなかった。会社では困惑するばかり。
しかし、たった一人、彼が何者かに、恐らくは異界に連れて行かれるのを「見た」者がいる。
警備室で顔を青くして当夜の警備員が、防犯カメラの映像を見ていた。