パソコンに映る女
旧校舎の4階にパソコン室がある。
一家に一台パソコンは当たり前、子供から大人までスマートフォンは必須アイテムというネット社会において、高校のパソコン室は授業の時にしか使わない、いわば忘れられた特別教室だ。
昔はインターネットがしたい時にパソコン室を使うということもあったそうだけど、今はスマホで充分。
生徒がパソコン室を使いたい時というと、ほとんどがプリンター目的だった。
私もその一人。部活で使う日程表を印刷するために、放課後担任の渡辺先生に頼んでパソコン室を開けてもらった。
「あんまり長居しないこと。プリンターの紙が無かったら職員室まで来なさい。あと、帰りは戸締りをして先生のところに鍵を返しに来ること」
簡単な注意事項だけを言って、渡辺先生はさっさと職員室へと帰って行った。
20年ほど前に作られたパソコン室は、この学校の中でも新しい設備に属する。
他の教室には無い壁の白さと、ホワイトボードの眩しさ、日焼けしていないカーテン、この教室の使用頻度がいかに低いかが分かる。
パソコン室は6人掛けの席が5列並んでおり、席の一番左端にその列のパソコンに繋がれた大きなプリンターが設置されている。
私は前から2番目の左端の席に座って、パソコンの電源をつけた。
パソコンを起動させている間に、家から持参したUSBメモリを取り出す。
エクセルで作った夏休み中の部活の日程表が入っている。
ただ印刷するだけなら早めに終わるだろうけど、少し修正を加えてから印刷しなければならないので面倒臭い。
時計をちらりと確認する。時刻は16時半を指していた。特に用事があるわけではないけど、17時までには終わらせて帰りたいものだ。
エクセルを開いて、修正箇所を探しながら地道にキーボードを叩く。
教室の中には、カチャカチャという無機質な音と、パソコンから発せられる耳鳴りのような機械音だけが響いていた。
広く静かな部屋に一人だけというのは、誰もいないから気兼ねなく使えるという心地良さと、誰とも会話せずに作業をする寂しさが綯交ぜになって来る。
しかし、私にはもう一つ思うことがあった。
思うと言うよりも、感じたと言った方がいいかもしれない。
この教室、誰かいる・・・。
パソコンを起動させ作業をしているうちに、この教室には私以外にも誰かがいるような気配がしてならなかった。
物音はしない、なんとなくそう感じるのは、このパソコン室の「空気」が無人の教室とは異なるものだからだ。
指に、頬に、うなじに、耳たぶに、そして背中に…誰かの空気を感じる。私以外の誰かが、私の近くにいる。
その気配を自覚した瞬間、私はぞくりと肩を震わせ、恐怖を振り払うようにわざと強くキーボードを叩いた。
「ふぅ、これでおしまい」
わざとらしい独り言を呟いて、修正した日程表を印刷する。新型のくせにやたら大きな音を立て、プリンターが一枚一枚紙を吐き出していく。
枚数が多めなので印刷が終わるまで少し時間がかかりそうだ。
私はスマホを取り出し、うつむきがちに友達からのメールをチェックしていた。
教室に充満する異様な空気を無視するように努めていたが、急に背中に「何か」の気配を感じた。
誰かが、私を見ている・・・今後ろにいる・・・
今までにないくらい、張り付くようなひやりとした感触を背中に感じた。
でもおかしい、渡辺先生は職員室に帰ったし、このパソコン室には私以外に人はいないはず・・・誰かがこっそり入って来たというのも有り得ない。
誰かいるの?そう声を出したかったが、出して何か返事があったらと考えたら怖くてとても言えなかった。
その時、ほったらかしにしていたパソコンの画面が真っ暗になり待機モードになってしまった。
黒い鏡のように真っ暗になった画面に驚き、私は顔を上げてデスクトップ画面へと顔を向けた。
そこには、背後から私をじっと見下ろす白い顔の女がいた。
ひっと悲鳴を飲み込み、息を詰まらせた。
長い髪を垂らした女は明らかにこの世の人間とは思えない不気味さを纏っていた。
私は声すら上げられず、咄嗟にキーボードの適当なボタンを押して画面を切り替えた。
エクセル画面が映し出され、印刷の終わりを告げる表示が画面の端に出ていた。
僅かな安心感を得て、ゆっくり振り返る。そこには誰もいない。
途端に、耳の辺りにひやりとした冷たいものを感じた。
真冬の外気で冷えた手のような何かが、私に触れたのだ。
背筋を這うような悪寒に気分が悪くなり、印刷された日程表を乱暴にバッグに詰め込んでパソコンの電源を落とそうとした。
その時、開いたままのエクセル画面に見慣れない文字が書かれていた・・・
たすけて
書いた覚えのない言葉だった。
そんな言葉、私は書いていない。
画面が暗転するまでそこになかった言葉だ。
私はパソコンにもUSBメモリにも触れず、バッグを抱えて一目散にパソコン室から逃げ出した。
翌日の昼休み、渡辺先生に昨日の放課後のことで職員室に呼び出された。
机に愛妻弁当を広げた渡辺先生は、私が忘れて行ったUSBメモリを手に溜め息をついた。
「サトウ、お前な。ちゃんと使い終わったら戸締りをして鍵を戻せと言っておいただろう。画面も点けっぱなしで忘れ物までして。
何かあったのかと先生心配しちゃったよ。」
USBメモリを受け取りながら、すみませんと小さく言って頭を下げた。
昨日のことを先生に話したところで、信じてもらえないだろう。
あの画面に映った徒者と思えない不気味な女について聞いてみたいという気持ちもあったが、変な目で見られると思うと怖くて聞けなかった。
何より自分の口から話すことで、昨日の出来事をより一層記憶に刻まれてしまうんじゃないかという恐怖もあった。
ふと先生の机に目を向けると、古いノートパソコンを開きっぱなしにしているのに気付いた。
デスクトップ画面には昨年生まれた子供の写真が壁紙にされている。
思考を切り替えようとじっと壁紙を眺めていると、次第に画面が暗くなり待機モードになった。
真っ暗になった画面に、私が映っている。
そして、遥か後ろからじっと私を見つめる白い顔の女も・・・
あの女が何者なのか、なぜ私を見つめるのかは今なお分からない。
ただ言えるのは、私はあの日以来パソコンをいじるのが怖くて仕方ないということだけ。
暗転した画面に映った女の目は、卒業した今も網膜に張り付いて離れない。